それは実用品であり、美術品。
天井の網代模様をきっかけに、
200年以上守り継がれる至極の美。
経糸は和紙、緯糸は本絹糸。
伝統美の極み「鹿島錦」
経糸(たていと)に上質の和紙、緯糸(よこいと)に本絹糸を使用。経糸は金・銀・漆・柄箔にして一定の規格に裁断し、緯糸は絹糸3本を1本にまとめて(三本諸撚り/さんぼんもろより)染色し、伝統の網代模様をはじめ多種多様な紋様を使いながら平織り、綾織り、模様織りで織り上げられる。それが、日本手工芸の極致ともいわれる「鹿島錦」です。和紙ということで機械織りができないため、地道にコツコツと織り上げていく根気と努力、そして非常に高度な技術が必要なので、作品になるまでには相当な時間がかかります。
そんなちょっと遠い存在で憧れの「鹿島錦」を身近に感じられる鹿島錦教室が催されていると知り、鹿島市の生涯学習センターエイブルへ。会場は、それぞれに自宅で織り進めてきた作品とご自身の織り機を手にした受講生の方々で賑わっています。

温かく出迎えてくださったのは、教室を運営している「鹿島錦保存会」の会員代表・相浦幸子さんと副代表の石永千寿子さん。保存会の会員数は約40名で、教室は朝の9時30分から16時30分まで開催されます。織り台に向かって織り進めたり、小物をつくったり、ときには意見交換を行ったりなど、充実の時間です。不定期開催ではありますが、基本的に火曜日が10年以上の会員さん、木曜日が初心者の会員さん向けに実施されているとのことなので、初めての方でも木曜日に参加をすれば“ついていけない!”ということがなくて安心です。
代表の相浦さんは、なんと85歳で、鹿島錦歴は50年!もともと鹿島出身で、ご結婚後はしばらく離れていましたが、転勤で戻ってこられ、1974年の鹿島市の文化祭で鹿島錦と出会います。目にした瞬間、これまでに見たこともないような美しさに惹かれ、翌年の1975年には保存会へ入会されたそうです。

1色の場合でも、1日わずか数cm!
段違いの根気で、段違いの美しさへ。
鹿島錦の始まりは、およそ220年前。鹿島鍋島第9代藩主だった直彜(なおのり)公夫人の篤子様(柏岡様)が病の床からふと見上げた天井の網代模様に心惹かれ、これで何か日用品をつくれないかと側近に相談されたことがきっかけといわれています。その後、さらに工夫が加えられながら受け継がれ、1910年にロンドンで開かれた日英大博覧会にも出品されることに。出品の際には、知名度を考慮して「佐賀錦」という名だったため、佐賀錦とも呼ばれるようになりました。
戦後しばらくは途絶えていましたが、この鹿島錦は受け継がれていくべきという想いから、伝統的技術の継承と鹿島錦の発展を目的とし、1968年に「鹿島錦保存会」が結成され、鹿島錦教室が始まり、現在に至ります。
ひとつの作品を仕上げるのにかなりの日数がかかると予想されるので、1日にどのくらい織り進められるのか尋ねたところ、わずか数cmとのこと・・・!「1色の場合であれば、1日で数cmほどでしょうか。一段に使う色を増やすと、さらに時間がかかります。また、作品をつくられるようになるまでに、短くても一年程度はかかると思います」と石永さん。やはり段違いの美しさの背景には、段違いの技術と根気強さがありました。

「現在は祐徳稲荷神社に所蔵されていますが、鹿島錦保存会の30周年記念に幅170cmで縦が200cmの几帳(部屋の間仕切りや目隠しに使う屏障具)をつくったときが本当に大変でした。11名がかりで織り上げていくものの、一人ひとり織り方が違うので色のラインが合わなくて、何回もやり直しました。対になっていたこともあり、2つ完成するまでに一年ほどかかりましたね」と当時をふり返って語ってくださった相浦さん。鹿島錦を織るにあたり、色や柄使いの感性を磨くため、自然をよく観察しておくことが大切と教室で話されているそうです。
文化祭での体験も好評。
強い想いで、後世へつなぐ。

保存会の会員さんの年代は20代から80代と幅広く、鹿島市の文化祭や博物館に展示されているのを目にして入会される方が多いそうです。
文化祭では、教室で作品をつくったときの美しいはぎれを活用した「ストラップづくり体験」も実施し、大変好評とのこと。「もっとたくさんの方々に鹿島錦を知っていただきたいですね。日本だけでなく、世界中の人に鹿島錦ならではの美しさを発信していきたい。後世に残していくべきものだと思います」
鹿島のお土産としても喜ばれること間違いなしの「鹿島錦」。絢爛豪華でありながら派手な印象にならず、上品で落ち着いた佇まいが魅力です。伝統の美しさを守り継いでいくという強い想いのもとで、これからもその文化が育ち、世界に向けて、後世に向けて、花開いていきます。